浜コースが閉鎖されて間もない1940年、日本ゴルフ協会(JGA)から全国のゴルフクラブに対し、日中戦争の激化に伴う戦時下自粛案が通達された。それを受け、鳴尾ゴルフ倶楽部でも同年の9月1日より下記の自粛を行うことが、メンバーに通達された。
- 1.各種クラブ競技を全廃
- 2.酒類はビール、日本酒のみ供給し洋酒類の供給を停止、会員各自の酒持 ち込みも厳禁
- 3.学生および30才未満のものはビジターとしてプレーを謝絶、今後学生、30歳未満者の入社も謝絶。なお現在会員にして30才未満の方はこの際他の適当な運動に転向されるようお勧めする
- 4.各員は次の各項を厳守されたい
- イ.今後外国製ボール、クラブなどゴルフ用品の新規入手は、いかなる方法によるも絶対に差し控えること
- ロ.倶楽部への往復に自家用車を使用せぬこと
- ハ.服装は質素を旨としニッカー等の着用は場内のみに限ること
- ニ.車内など公衆の面前ではいやしくもゴルファーとして非難誤解を生じやすい言動をつつしむこと
(『40年史』より)
太平洋戦争を目前に控え、敵国のスポーツとされたゴルフに対する反感をいかに緩和するか。その苦労がにじみ出た自粛ぶりである。
1940年にはゴルフ入場税が2割増額され、各ゴルフクラブの会報が休刊とされる。1942年にはJGAが解散。1944年の2月には「日本打球」と名前を変えていた「ゴルフドム」も終刊となった。
広大な土地を使用するゴルフコースは反感の対象となり「農耕地に開放せよ」との声が沸き起こり、軍用として徴用されるコースも多かった。1941年にはC.H.アリソン設計の名コース、東京ゴルフ倶楽部の朝霞コースが陸軍予科士官学校用地として徴用され廃止。その後も武蔵野カンツリー倶楽部の六実ゴルフ場と藤ヶ谷ゴルフ場(再開場せず)、川奈ホテルゴルフコース、関西では茨木カンツリー倶楽部、大阪ゴルフクラブ(淡輪)などが次々と閉鎖されていった。
また、ガソリンの統制が進んだことで自動車の使用が難しくなり、鳴尾においても、山下駅からコースまで徒歩に頼るほかない状況となる。歩く距離を少しでも縮めようと5番グリーンに登る近道を整備し、11番グリーンあたりから10番ティーに至る林の中に新たな道が設けられた。さらに悪化する戦況に応じ食糧増産に協力するという見地から、コース内では米やサツマイモなどの栽培が始められた。 1944年には、中部軍の軍需品集積場として強制的に借り上げられ、コースは閉鎖。8月6日の日曜日に、全メンバーに通告する間もなく、たまたま来場した若干のメンバーだけで「サヨナラ競技会」が行われた。