1928(昭和3)年の暮れ、新しい18ホールのコースを建設するための用地を探す委託をクラブから受けたクレーン3兄弟は、友人で神戸や大阪の土地の事情に詳しく、自動車を持っていたJ.エブラハム、J.ブラモンドの助けを借り、毎土曜日、理想の用地を見つけるために車を走らせた。
兵庫県加西郡北条町の土地、現在の廣野ゴルフ倶楽部があるあたりを過ぎた三木町(現・三木市)に近い敷地、さらには三田町(現・三田市)の北の郊外の敷地を視察したが、いずれもゴルフコースの適地ではあったが、神戸、大阪から距離が遠く、あきらめざるを得なかった。
その頃、宝塚ホテルの南支配人が宝塚ゴルフ倶楽部の新コース建設のために知り合った池田のブローカーがいるとの話が耳に入り、そのブローカーの紹介を依頼してもらったところ、能勢妙見の道路に近接した多田村の土地が最適地だと言う。
クレーン3兄弟は早速この土地を歩いてみたが、あまりにも狭いことは明らかだった。しかし、土地のブローカーたちが一週間ほど経ってからH.C.クレーンの芦屋の自宅にやって来た。多田より北にある土地が、もっと良いのでぜひ見てほしい、という話であった。
1929年の2月の寒さ厳しい日曜日、クレーン3兄弟とブローカーは、多田駅から電車に乗って「畦野」で降りた。東谷村の村長、野原種次郎の家の前を過ぎて、たどり着いたのが兵庫県川辺郡東谷村大字西畦野(現・川西市西畦野)、現在の猪名川コースの16、17、18番あたりであった。当時、この土地は松の巨木に囲まれた森林だった。ブローカーが売ろうとしていた土地は魅力的ではあったが、歩測してみると6ホール分ほどしかないことがわかった。
しかし、その数日後、ブローカーたちが再びH.C.クレーンの家を訪れる。土地が追加できそうなので、今一度、実地検分してほしいという話だった。J.E.クレーンが土地の追加分を見に出かけたが、追加した土地を加えても、18ホールを造るにはまだまだ面積が足りなかった。
暗礁に乗り上げたかと思えた新コース建設に、救いの手を差し伸べたのは、東谷村の村長、野原種次郎であった。地域の発展に並々ならぬ決意で取り組んでいた野原は、ゴルフコースの誘致が地域にとって有意義なものになると判断し、西畦野、山原、両地域の関係地主たちに用地提供を熱心に勧めた。この野原種次郎村長の働きがなければ、猪名川コースの完成はなかったことであろう。
こうしてまとまった実測面積15万坪の土地の購入価格は83000円。大阪からおよそ1時間40分、神戸からおよそ2時間を要するとはいえ、能勢電鉄の山下駅からコースまでは徒歩15分。タクシーならば5分の距離である。他の候補地と比較すれば、83000円は決して高いものではなかった。
このコース用地について伊藤長蔵(ペンネームC・I生)は次のように書いている。
「運命は容赦なく迫って鳴尾は泣いても笑っても引き払わねばならぬ。そして新コース用地の捜索にもとりかからねばならぬ。土地の点では関西は関東よりはるかに恵まれていない。帯に短くたすきに長くではなく帯にもたすきにもならぬ土地ばかりで東奔西走の委員の努力は何度無駄になったか知れない。しかし終に一つ与えられた。そして元来にデモクラティックな倶楽部は改新の事業に議論区々に分れかけたが中心勢力の指導よろしく倶楽部に維新の具体案成っていよいよ土地を買収しレイアウトに着手することになった」(『ゴルフドム』 1929年9月号『鳴尾クラブの新コース』より)
中心勢力とは、今村会長、髙畑キャプテンら、特別委員各氏のことであろう。当時から鳴尾ゴルフ倶楽部は、会員一人ひとりを重んずる民主的な手法でクラブを運営していたことがわかる。
1929年の6月には早くも土地の仮契約が終わり、11月には所有者移転の登記も終わる。11月4日に地鎮祭が行われ、数日後には猪名川コースの造成工事が始まった。当時はブルドーザーのような重機がなく、樹木の伐採や土地の掘り返し、運搬、切り株の除去など、すべてが手作業で行われた。現在の猪名川コースに残る複雑なアンジュレーションは、この手作業の賜物である。
クレーン3兄弟が週に3~4回、現場に来て指示を与え、鳴尾ゴルフ・アソシエーション時代にクラブハウスとして家を提供していた縁で浜コースのグリーンキーパーを務めていた岡田力蔵が、現場長として150名程の作業員とともに工事を急ピッチで進めた。その甲斐あって1930年の夏の初めには、ほぼ造成が終わり、芝生の植え付けも完了した。
クラブハウスは新築するのではなく、鳴尾(浜コース)にあったクラブハウスを移築することとした。建物は小さかったが、居心地の良いクラブハウスだったのである。
敷地購入費を含めて、工事にかかった総費用はおよそ255000円に及んだ。今村幸男会長を委員長とし、鋳谷正輔、松葉恭助、堀新、大石七郎、髙畑誠一の各氏を委員とした財務委員会は、クラブの余剰金に加え、既存の会員から一人250円、新規入会者からは一人500円、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄株式会社)からの借入金80000円などでこれを賄っている。
横屋の時代から、土地の問題で悩まされてきた倶楽部は、ついに立退きの不安のない、自前のコースを持つに至ったのである。