1945年8月15日。終戦の日を迎え、猪名川コースにもようやく日の当たる時がやって来た。大阪陸軍兵器補給廠長から同年の8月31日を限りとし、賃貸契約を解除するとの通知があり、さらに中部軍管区から「借上げ契約は12月1日、兵庫県庁へ移管した」との連絡が届いた。ようやくコースの用地が軍の手から離れたのである。しかし、戦後の混乱の中、いつになったらコースが返還されるのか、まったく目途の立たない状況は変わることがなかった。
いち早く立ち上がったのは、戦中、敵国人とみなされ軟禁状態に置かれていたクレーン兄弟であった。解放されるや否や、倶楽部の幹部たちを次々に訪れ、一日も早いコースの復興を呼びかけたのである。
倶楽部はこれに応え、当時の中村理事長を委員長、佐藤常務理事を副委員長とし、H.C.クレーン、J.E.クレーンらを加えた13人の復興委員会を組織する。H.C.クレーンがたびたびGHQを訪れるなど、復興委員会の懸命の努力が実を結び、1947年4月6日には3ホールが復旧、同年の8月3日には6ホールとなり、翌1948年の7月11日は12ホールが開場。9月26日には15ホール、そしてついに1949年には18ホールが完成し、8月7日に250名が参加する盛大な「祝賀会」を開催する運びとなった。
軍の徴用から5年を経て、ようやく猪名川コースは、その輝きを取り戻したのである。
猪名川コースの誕生