2コースを持つ至福の時代が続いたのは9年余りにすぎなかった。1939年6月30日、1928年から鳴尾の土地の半分を買収していた川西航空機(後に終戦間際の主力戦闘機となる紫電改などを製造。現在の新明和工業株式会社の前身)が、日中戦争勃発による影響から工場拡張に迫られ、隣接する残りの土地も手に入れ、その明け渡しを要求してきたのである。
その前年(1938年)に、浪華倉庫に代わり土地の所有者となった蓬莱不動産と、借地代金月400円、立退き要求は4カ月前という契約を結んだばかりの出来事だった。
「思えば大正9年、3ホールスをもって開場した鳴尾コースも、満19年にして遺憾ながら閉鎖の止むなきにいたったことを全社員は肩を抱き合って惜しみ嘆いた」(『40年史』より)。
メンバーたちの落胆のほどはいかばかりであったか。9月24日に開催された「さよなら競技会」では、「競技ののちにパーティを催し、夕刻記念撮影をしたが、コースとの別れを惜しんで、暗くなるまでプレーを続ける社員が多く、そのため記念撮影に間に合わなかった人がたくさんあった」(『40年史』より)という。
鳴尾コースの閉鎖に伴い、それまで存在した「鳴尾コースのみを利用できる鳴尾社員」は250円、「鳴尾婦人社員」は125円を追加すれば正社員となれることとなり(いずれも譲渡不可)、会員の資格は一本化されることとなった。
また、「良質のコウライ芝」として評価が高かった芝生のうち1500坪分は記念として猪名川コースに移植し、残りは切り取り代金を含めて1坪38銭で希望者に分け与えることとなった。この年は夏季に雨が少なく利用できた芝は少量だったというが、このコウライ芝が「鳴尾のコウライ」の原点であることは疑いのないことであろう。