鳴尾ゴルフ倶楽部の創立
鳴尾浜。すべてはこの地から始まった。やがて、浜のリンクスと呼ばれるようになるスタートは、1914年の鳴尾ゴルフ・アソシエーション。その消滅を危惧した有志たちが、1920年、鳴尾ゴルフ倶楽部を創立した。わずか3ホールの出帆だった。6ホール。そして9ホールと拡げ、1924年には18ホールとなった。その間、クラブ組織とその活動は目覚しい。鳴尾社員で慶應義塾大学卒の村上伝二がプロとなり、1928年には、日本プロゴルフ選手権が開催された。そして、人々を驚愕させたのは、極めてモダンな西洋式のクラブハウスでもあった。鳴尾の草創期である。
──三田村昌鳳
鳴尾ゴルフ倶楽部が創立(初夏)
福井覚治が日本初のプロゴルファーとなる
第1回年次総会を開催(春)
9ホールへの拡張が承認され、12月11日に竣工し、 開場記念36ホール・メダルプレーを開催
コースは鳴尾ゴルフ・アソシエーションから引き継いだ3ホールをそのまま使用...
第2回年次総会で、R&A(セントアンドリュース)の定款を 基にした定款が制定される
西村貫一は「日本のゴルフ史」の中で、この「定款」の中で特筆すべき記事として次の文章を...
サンドグリーンから芝のグリーンへ
(1921年秋から作業を開始し、1922年春に完成)
日本では、芝のグリーンは横浜・根岸(NRCGA)に次いで、2コース目
第1回神戸ゴルフ倶楽部とのインタークラブマッチ開催(11月19日、於・鳴尾)
第1回舞子カンツリー倶楽部とのインタークラブマッチを開催 (4月22日、於・舞子)
関東大震災(9月1日)
第1回倶楽部選手権の開催(11月、優勝・W.Butcher)
日本で唯一のシーサイドコースとして18ホール、5080ヤード、 パー 68へ拡張(9月14日)
ジャパン・ゴルフ・アソシエーション(JGA、後の日本ゴルフ協会)が 設立(10月17日)。関東・関西の7倶楽部が参画
西洋風のクラブハウスを新築(11月8日)
18ホール完成に先立つ1924年8月20日に開かれた委員会では、名誉会計J.F.グテーレスからクラブハウス新築...
11番、18番のフェアウェイを鬼芝から「コウライ芝」に張り替え
倶楽部旗の制定
関西ゴルフ・ユニオン(KGU、後の関西ゴルフ連盟)が設立(10月7日)
関西7倶楽部が参画
昭和金融恐慌(3月)
第1回茨木カンツリー倶楽部とのインタークラブマッチを開催 (5月8日、於・茨木)
鈴木商店が破綻(6月)。コース敷地の所有者が浪華倉庫へ移る
日本唯一のシーサイドチャンピオンコースへと改修、拡張 (7月17日。6030y、パー 72)
18ホールの完成式典で、会長の鈴木岩蔵が語った「日本唯一のこの海浜リンクスを、日本のみならず...
18ホールスでの「サヨナラカップ」開催(6月9日)
世界大恐慌(9月)
6月末、敷地所有者が川西機械製作所へ移り、南側の9ホールを閉鎖
18ホールのチャンピオンコースが完成し、会員が増え、財政的にも豊かになり、まさに「旭日昇天の勢い...
猪名川コース地鎮祭(11月4日)