18ホールのチャンピオンコースが完成し、会員が増え、財政的にも豊かになり、まさに「旭日昇天の勢いで、止まる所を知らない様な有様」(『日本のゴルフ史』より)だった鳴尾ゴルフ倶楽部の行方に、雲がかかり始めたのは1927年6月のことだった。
昭和恐慌のあおりを受けて破綻した鈴木商店は、鳴尾の土地を系列企業の浪華倉庫(後に澁澤倉庫と合併)に売却してしまう。横屋ゴルフ・アソシエーションや鳴尾ゴルフ・アソシエーションの二の舞になるまいと、鳴尾の委員たちは相談の上、浪華倉庫に「地代は払うから、正式に契約してほしい」と申し入れるが、浪華倉庫はこれを認めなかった。同年10月「6カ月の猶予をするからゴルフ倶楽部は立ち退いて欲しい」との返答が、浪華倉庫から届く。この回答を受け、「年に25円くらいで貸して欲しい」(『日本のゴルフ史』より)という交渉を始めたが、浪華倉庫からは芳しい回答はなかった。
土地問題に進展がないまま迎えた1928年12月10日。浪華倉庫の常務取締役、菊川武夫から、鳴尾ゴルフ倶楽部キャプテン、H.C.クレーン宛に以下の内容証明郵便が届いた。
「拝啓 かねて貴意を得おき候貴方ご占拠になりおるゴルフコース所在土地売却の件は、弊社債務者台湾銀行の都合により、川西機械製作所に売却の運びと相成候に就ては、本書到着後6カ月以内に該土地を当方にお明け渡し相成度、この段貴意を得申候」(『40年史』より)。
この内容証明を受け、12月10日に神戸、翌11日には大阪で臨時総会が開かれた。協議の結果、以下の3点が決議された。
- ①出来るだけ多くの代償金を得るよう努力すること
- ②新規コース用として用地を見つけ、コース建設のための金融の可能性を求めること
- ③鳴尾の土地の未売却部分を借り9ホールのコースを再建すること
また、土地所有者と交渉する全権を持った特別委員会が設けられ、今村幸男がこの委員会の会長となった。
浪華倉庫との交渉は1929年5月に完了。クラブは土地の明け渡しの代償金として3万円を受け取り、土地の残存部分6万坪については、月150円で借り受けるが、1カ月の猶予期間を以って明け渡し要求があればこれに応じるという契約を結んだ。
9ホール閉鎖の直前、18ホールへの惜別競技として、関東関西アマチュア競技(6月2日、勝者・関東)、サヨナラカップ(6月9日、優勝・A.E.クレーン)、鳴尾対神戸年次対抗競技(6月16日、勝者・鳴尾)などが行われている。
新築された西洋風のクラブハウスは移築され、9ホール、3300ヤードの新しい浜コースがここに誕生することとなった。そして同時に9ホールの閉鎖は、猪名川コース誕生へと続く、新たな旅の始まりでもあった。