コースは鳴尾ゴルフ・アソシエーションから引き継いだ3ホールをそのまま使用(夏には6ホールに拡張)。クラブハウスも同様に引き継ぎ、近くの農家、岡田家の奥座敷を借り受けた。これが食堂であり、ロッカールームであり、ラウンジであった。コースに行くには阪神電車の鳴尾停留所で降りて、鳴尾村の東端、競馬場の東側を流れる小川に沿って歩いた。自動車はなく、「1台、停留所前に七十歳くらいのよぼよぼした車屋さんがおりましたが乗るのが気の毒なくらいで大抵バッグを肩に歩きました」(J.E.クレーン談『THE NARUO BULLETIN』創刊号より)という状況だった。
ほとんどが埋め立て地だったコースは、雨が降ればたちまち一面の池となるありさまだったが、それでも会員は徐々に増えて50名を超えた。この盛況を受け、1921年の春の第1回総会では、9ホールへの拡張案が可決される。
増設する3ホールの設計をしたのはゴルフを始めてようやく1年のJ.E.クレーン。「コース設計などと七難しい理屈のわかろうはずがなく、よくも大胆にやれたものだなと云えば、そうでしょうが当時はそんな事細かしいことはあまり会員もとりあげて云わず、各ホールのレングスの適当な配置と5番が1番と4番の両ホールにクロスしていて危険だからそれをなんとかする様にくらいのところでやって行ったものです」(J.E.クレーン談『THE NARUO BULLETIN』創刊号より)。
1921年にはさらに、せめてグリーンだけでも芝を張ろうという話が持ち上がり、1922年の春には早くも完成。日本のゴルフコースで当時、芝のグリーンを持っていたのは、横浜の根岸の競馬場の中にあった「ニッポン・レースクラブ・ゴルフィング・アソシエーション」(NRCGA。通称、根岸。1906年創立)のみであった。鳴尾ゴルフ倶楽部は関西で唯一、日本で二番目の芝のグリーンを持つコースとなったのである。
鳴尾ゴルフ倶楽部の創立