18ホール完成に先立つ1924年8月20日に開かれた委員会では、名誉会計J.F.グテーレスからクラブハウス新築の提案が行われ、全員一致でこれを決議。
同年の12月12日の臨時総会でこの案は正式に可決され、実行委員としてJ.エブラハム、J.E.クレーン、J.F.グテーレス、吉田耕二の4人が選ばれる。
翌1925年5月24日の総会の後に臨時総会が開かれ、新しくクラブハウスを武庫川の下流沿いに建てるための設計案、予算案が可決された。クラブハウスの新築にあたっては、年5分の利息が付くクラブ債権(額面50円)を発行し計10000円を集金し、外国商社からも寄付を募った。実際の建築費用は、20644円79銭だったという。
新クラブハウスは9月に完成し、11月8日には新クラブハウス開きの記念式典が行われた。鈴木岩蔵会長が不在だったため、副会長の芳川筍之助が代わって祝辞を述べ、引き続きキャプテンのW.ブッチャーが挨拶。来賓を代表してV.B.ウイルソン、そしてミセス・リボーが当日参加の婦人を代表して祝辞を述べている。
新クラブハウスの設計はC.ミッチェル、施工は松本組。1階に男子用、婦人用のロッカーと男子用の浴室洗面所、2階にはバーと食堂、ラウンジにはベランダがあった。岡田家の座敷で、各自が持参した弁当を食べ、庭の井戸端で汗を流していたころからは、想像もできないほどの豪華なものだった。
「1925(大正14)年に建設した洋館のクラブハウスは、外部からも眺めることが出来た。何もない草原に出現したゴルフコースと洋館がセットになった風景は、いきなり外国がやって来たような驚きを住民に与えた」 (『鳴尾村誌』1889-1951)という。海沿いにクラブハウスが建てられ、会員たちは、夏にはゴルフと海水浴が楽しめると大喜びだった。
また、クラブハウスが移されたため、ホールのルーティンにも変更が加えられた。10番ホール「1本松」が1番となり、9番「武庫川」が18番ホールとなった。
この年の鳴尾ゴルフ倶楽部の会員数は大幅に増加し、正会員は287名。名誉会員がW.J.ロビンソン、鈴木岩治郎(二代目)、鈴木岩蔵の3名。役員は、会長が鈴木岩蔵、副会長は芳川筍之助、キャプテンはW.ブッチャー、副キャプテンは島田義治、名誉書記はJ.E.クレーン、名誉会計はJ.F.グテーレスが務めている。
この頃のハンディキャプボード(『日本のゴルフ史』に掲載)によれば西村まさなど11名の女性会員がいた。