欧米人が会員のほとんどを占めた横屋とは違い、鳴尾ゴルフ・アソシエーションには神戸や大阪からの経済人が集い、腕を磨き、より一層ゴルフに魅せられていった。
冬場にはプレーができず、交通の便も悪かった神戸ゴルフ倶楽部の会員たちも続々と来遊。多い時には日に30~40名程がプレーし、コースは満員になっていたという。
1916年10月16日付のハンディキャップボードを見ると、メンバーの数が80名を超え、日本人も30名を超えていた。鳴尾ゴルフ・アソシエーションは、欧米人を中心とした単なるゴルフクラブにとどまらず、後に関西ゴルフ界に隆盛をもたらすこととなる日本人ゴルファーたちを育成する機関(インキュベーター)としても機能し始めていたのである。
1期生として成瀬正行(川崎造船)、久保正助(神戸ガス)、羽山誼吉(アメテレ)、その後1年ほどして南郷三郎(神戸桟橋)が入会。
2期生には加賀覚治郎(新大阪ホテル)、乙部融(三菱銀行)、3期生には村上伝二(後に鳴尾ゴルフ倶楽部のメンバーから1923年、プロに)が加わった。
その他、岡崎忠雄(岡崎汽船)、村田省蔵(大阪商船)、星野行則(大阪ロータリークラブ初代会長)、伊地知虎彦(太洋海運)など関西ゴルフ界の発展に大きく貢献した諸氏の名を見る事が出来る。
鳴尾の源流